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日本に議論文化が根付く日はくるか

くりこ(@kuriko828)です。

私はライフワークでディベート(議論・討論)の普及活動をしています。
中高大学生向けにディベートを教えたり、大会で審判をしたり。あと、ディベート団体の運営をしたりなどもしています。そんなこんなで、おそらく普通の人よりも頻繁に「日本に議論文化を根付かせるにはどうすればよいか」「そもそも議論文化とはなにか」「いい議論とはなにか」等、議論について考えています

 

そんななか、今日、Twitterを眺めていたら、こんなツイートが流れてきました。


正直このツイートをはじめてみたとき、こんな普通のツイートになんでいいねがこんなに集まっているのか、全然わかりませんでした。
こんなの、めちゃくちゃ普通のことだと思うんです。
私から見れば「朝起きたら『おはよう』っていいましょう」というツイートに「いいね」がたくさんついているのと同じような現象です。

でも冷静になって考えなおすと、この、私がごくごく普通だと感じることを「こうなんだよ」とツイートして、それにいいねがたくさんつく、というのが今の日本の土壌なのかな・・・などと考えていたとき

ふと、以前箕輪編集室(オンラインサロン)の定例会でゲストのNewsPicksの佐々木紀彦編集長がお話されていたことを思い出したので、ご紹介します。

アメリカでは議論できること=かっこいい

佐々木さんは28才の時、米国留学されています。
現地では政策について学んでいらっしゃったよう。

日本の大学における政治政策の講義は、たとえゼミであっても、政治学関係の本の輪読や、時事問題などに関して「各自意見を出す」形のものが多いのではないかと思います。
つまり「意見を交わす・議論する」ことはほぼないのではないかと思います。(もしうちではやっていたよ、という事例があればぜひ教えてください。潜りに行きたいです・・・←)

一方、佐々木さんが留学された米国の政策大学院では、がっつり「議論」が行われていたようです。そして、その議論を行うことができる人が、かっこいい、という場だったとか。

英語も大変でしたし、小さい頃から培った教養力が違うんですよ。
やっぱり議論をすることが日常になっている。
日本では知的に議論できる場がない。議論なんかしてると意識高いってバカにされる。
あっちではそこで本当に深い議論できる人が『かっこいい』という場なんですよ。

冒頭のツイートの話に戻りますが。
やはり、日本において、まだまだ議論をすることは日常じゃないのだと思います。
慣れていない。

だから、言葉を使う側も、適切に言葉を使うことができないケースがよくある。そして、言葉を受け取る側も、議論の場として適切な受け取り方をできないケースがよくある。結果的に、建設的な議論が出来ない。

いきなり”議論なんかしていると意識高いと言われる”状態から”本当に深い議論ができる人がかっこいい”をつくることは難しいと思います。
でも”知的に議論できる場がない”というのは変えていきたいし、そういう場はつくる働きかけをしていけば、少しずつ変わってくるのではないか?と思います。
現に今でも、ごく身近な人たちの集まりでは”知的に議論できている”と感じる場もあります。そういった場が、もっといろんな場に広がりますように。

議論することは創造的でワクワクすること

あと、これは佐々木さんの話とは関係ないですが。日本において議論文化を広めていくうえで1つかならず広めていきたい考え方があります。

それは”知的に議論する”ことは必ずしも怖いこと・自分を否定されることではない、ということです。

議論することは、自分の考えをまとめて人に伝えるだけでなく、それに対してフィードバックをもらうことによって、自分だけでは得られなかった示唆を得ることができる行為です。
相手へのリスペクトや思いやりという「安心安全」が担保されている場で、マイルドなコミュニケーションでできたら、本来はとても創造的でワクワクするもの。

今おもいついたのですが。そういう創造的でワクワクする議論が体験できるワークショップなんかも、今後、やっていってみたいですね。

質の高い議論はなにかを生み出す力になる

日本でディベートや議論教育が行われる場合、それは「論理的思考力を鍛えるため」として説明されがちです。でも私はこれ、実際違うと思います。もし論理的思考力を鍛えたいなら、ディベートや議論のまえに小論文・論文を書くことを教えることが大切かと思います。

これに関して、佐々木さんがもう一つ興味深い話をされていたので、ご紹介します。

(箕輪氏)議論ができることでビジネスパーソンとしてどんな差がつくんですか?

何かを生み出す力が変わる。クリティカルシンキングのようなものは、議論して考える中からでてくる。
料理と一緒。自分の中にどれだけいい材料を持っているか(教養)と
それをどううまく調理できるか(考えるスキル)とが、圧倒的に違う。

アメリカは真剣に議論をかわすことで、その議論から知見がついていく。
でも日本では議論をするような場がない。議論をかわす前に意識高いとバカにされる。
だから教養も知見も考える力もつかない。

ロジカルシンキングとは、物事を筋道立てて、主張と根拠に分けて思考するスキルです。クリティカルシンキングというのは、ロジカルシンキングに、物事の前提を疑う批判的な観点等客観的な視点を加えたものです。

ディベートや議論では、ロジカルシンキングだけでなく「クリティカルシンキング」が必要です。それがおこなわれてはじめてディベートや議論の価値がでます。

佐々木さんの話を伺って、アメリカの議論文化へのあこがれが今まで以上に強くなりました。自分の考えをロジカルに相手に伝えながら、相手のクリティカルな視点を取り入れ、全体の考えを昇華させていく。そしてそれがなにか新しい画期的なものを創造していく。そしてそういった議論を数々行っていくから、知見がどんどん蓄積されていく。

もちろん、佐々木さんが行ったのは、アメリカの普通の家庭へのホームステイ・・・ではなく、優秀な政策大学院です。アメリカならどこでもそこでも普通に議論ができる環境、というわけではないんだと思います。

とはいえ、やはり日本はまだまだ。先ほど書いた「創造的でワクワクする議論が体験できるワークショップ」。思い付きではあるものの、ちょっといいかも。そのうち本気で企画するかもしれません。