ライフキャリア

結婚して1年、相手を”理解できる”なんてただの驕りだった

くりこ(@kuriko828)です。
結婚記念日はバレンタインデーの1日前、つまり2月13日、今日です。

「夫を理解する」なんておごりだ

結婚当初、結婚してずっと一緒にいるようになれば、お互いのことがしっかり手に取るようにわかる、所謂「以心伝心」になれる、とばかり思っていました。

でも、ぜんぜん、全くそんなことはありませんでした。むしろ、この1年間でわかったのは、いかにずっと一緒に過ごしてる夫でも、相手を理解し、理解されることは難しい、ということ。というか「理解する」ということは根本的に無理だなぁ、と思うに至りました。

この1年間、たぶんこれまでの人生で一番喧嘩したと思います。

はじめのうちは、それらの喧嘩に対して自分の価値観で対応し、自分の価値観で夫の気持ちや行動を推し量り「理解しよう」としていました。

例えば「私なら、間違ってると思ったらちゃんといってくれた方が嬉しい」のになんで言ってくれなくて溜め込んでるの?とか、落ち込んでる時は寝て回復するに限る!のになんでより疲れちゃうようなことしてるの?とか。

でも、自分の価値観でわかると思って、わかろうとして。自分の価値観をあてはめようとすれば当てはめようとするほど、わけがわからなくなっていきました。

終いには、正直、夫のことが疑心暗鬼になっていたこともありました。なんでわたしこんなにあなたのこと考えてるのにそんなことするの!?とか。

でもあるとき、ふとしたことがきっかけで「あれ?そもそも根本的に”理解する”っていう発想がダメなのでは?」と思い至りました。

ある夜、わたしと夫が喧嘩したあと、夫が同じベッドで寝ない!と怒りました。なお、夫がこういう行動を取るのはこれが初めてのことではなく。寒いし風邪引くからやめたら良いのに、とか、同じベッドが嫌なほどわたしのことが嫌いなのか?とか思ったし、本人にも言ったわけです。

でも、なぜか夜中にベッドにやってきて、翌朝は昨晩の喧嘩は嘘だったかのように普通に接してきました。これも、いつも通りでした。わたしにとってはわけのわからない出来事です。

わけわからなかった。ほんとうに。でもふと「”いつも同じように”わけのわからないことが起こっている」と気づいて。これはもうこの「わけのわからなさ」をそのまま受け止めるしかないのでは?と思うようになりました。

ありのまま「ログ(観察日記)」に残す

そこで、わたしは事細かに夫の言動についてログをとっていくことにしました。いわゆる観察日記です。なにかある度に「こんな状況で、こんなことがあって、どうなった」を記録しまくりました。ログをとって、傾向を探ろうとしたのです。

すると、このログには3つの良いことがありました。

1つ目は、ログを取ることの直接的な効果。過去の繰り返しについては行動の予測可能性ができたこと。

そして2つ目は、ログを取る、つまり、事実をありのままに書き留め、その事実をじっくり見つめることを通して、夫「そのもの」が見えてきたこと。

これまでいかに自分の色メガネで夫を見てきたかに気づくことができました。

でも、そもそも約30年も全然違う生活をしてきたわけです。同じ価値観だと思う方が馬鹿げてる。同じ行動原理だと思う方が間違ってた。

いつどんな時に怒ったか、むすっとして家を出て言ってしまったら、過去にそういうことがあったとき、その時どう言っていたか。あとからどう言っていたか。

そして、3つ目はログの分析を通して夫に対して根っこの信頼感を抱くようになり、「よくわからない」という不安が小さくなりました。

自分の価値観で推し量ろうとすると、自分の価値観に当てはまらないものはすべからく「よくわからない」もの、「不安な」ものでした。でも、ログをとってしっかり行動を分析していくと、その行動の裏には強い思いやりの気持ちなどが潜んでいることに気づきました。自分の価値観をやめて夫をしっかり見るようになったら、そういう根っこのところが見えてきました。

1年経って、いろんなパターンが増えてきました。まだまだパターンは増えると思います。でも、根っこの信頼感が出来てきたから、なにか表面的には「え?」ということがあっても、まぁ、きっと大丈夫なはず、と思えるようになってきた気がします。たぶん。

今後の課題

最近、夫にも、わたし自身についてもっと知ってほしいなぁと思うようになってきています。

そしたら、わたしは、自分がどうして欲しいのかを言語化して伝えるのが苦手だなぁ、できれば伝えずにわかってくれると良いのになぁと「察してちゃん」になっているなぁ、と気づきました。

でも、伝えなければわかってもらえないんです。だったら伝えないで永遠に来るはずのない奇跡を待つより、してほしいことを伝えて、やってもらう方が合理的。もっと自分の考えていること、感じていることについての言語化が必要と思うに至りました。

例えば、記念日を祝う風習のない夫に、祝って欲しい。祝う方法はこうだ、というのを今、必死で伝えています。

今年の結婚記念日は平日で、夫は仕事なので、前倒しして土曜日に、お祝いとして、息子を友人に預け、近所にあるお洒落なフレンチレストランにランチに行きました。

段取りはわたしです笑

「察してちゃん」はあきらめました笑

もし「察してちゃん」だったら…”私が何も言わなくても、夫が、わたしに内緒で、素敵なレストランを予約してくれていて、アクセサリーと花束をプレゼントしてお祝いしてくれる…”なんて妄想しつつ、そうならない現実に激しくイラつき動揺するわけですが、イラついても仕方ありません。だって、それがわたしの好きなことだってわかんないんだもん。同じ価値観じゃ無いから。わたしがそういうことが好きなんだよって伝えてないから。無駄にイラついてるだけ。非合理的。

わたしの目標は、私のしてほしいことを伝えて、1日でも早く、記念日に夫がそういうことしてくれること…ですが、まぁ気長に、銀婚式あたりを期待しておこうとおもいます!笑

今年もまた1年よろしく。